NIRVANAがBLURの『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』に与えた影響
Photo by Koh Hasebe / Shinko Music / Getty Image

NIRVANAがBLURの『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』に与えた影響

「『ネヴァーマインド』は敵だと認識してた。もちろんその〈敵〉を大いにリスペクトしていた。だけど自分たちは、それとはまったく違う作品をつくらなければ、と決意していたんだ」ーーグレアム・コクソン
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translated by Ai Nakayama
Tokyo, JP

7年という短い活動期間中に(あるいはそれを超えて)、NIRVANAが成し遂げた全功績のなかで、ブリットポップ誕生への寄与は、ほぼ想定外だった。どれほど想定外だったかというと、マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)をヒットチャートの首位から蹴落としたのと肩を並べるくらいだ。このシアトル出身バンドの歪みながらもハッピーなギターサウンドや暗い歌詞に心から猛烈にべた惚れしていたひとが大半だったが、英国ロンドン出身のインテリ男子4人組は、別の感情を抱いていた。

1991年のインタビューで、NIRVANAのフロントマン、カート・コバーン(Kurt Cobain)は、BLURの〈There’s No Other Way〉を今のお気に入りソングとして挙げていたが、この2バンドは相思相愛ではなかった。当時、グランジは世界中の音楽シーンを席巻しており、英国も他国同様、その影響下にあった。例外として、TEENAGE FANCLUBやSUEDEなど、数少ない国内バンドが英国の誇りとなっていたものの、英国メディアはPEARL JAMやMUDHONEYなど、シアトルのシーンに夢中だった。

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「NIRVANAの『ネヴァーマインド』( Nevermind, 1991)については、すばらしいとは認めてた。だけどそう発言したくはなかった」とBLURのギタリスト、グレアム・コクソン(Graham Coxon)はのちに『Mojo』に打ち明けている。「『ネヴァーマインド』は敵だと認識してた。もちろんその〈敵〉を大いにリスペクトしていた。だけど自分たちは、それとはまったく違う作品をつくらなければ、と決意していたんだ」

BLURがグランジの発祥地でつらい想いをしたことを考えると、それも無理もない。彼らの米国ツアーは、予定していたほど上手くはいかなかった。マネージャー、マイク・コリンズ(Mike Collins)の経理ミスのおかげで、思いがけず付加価値税の未納分6万ポンド(当時のレートで約1000万円)という巨額の負債を背負わされたBLURは、とにかく金を稼ぐために、10週間にもわたる米国ツアーを余儀なくされた。BLURをブレイクさせるために、100万ドル(当時のレートで約1億3000万円)が費やされたとされる、彼らの米国におけるレーベル〈SBK〉は、バンドに非現実的な期待をかけ、それが多大なるプレッシャーとなってバンドにのしかかった。BLURは米国で、解散危機に陥っただけでなく、メンバー同士での殴り合いや、酔っぱらったグレアムがツアーバスの窓ガラスをすべて割るところまで追い込まれた。フロントマンのデーモン・アルバーン(Damon Albarn)はツアー中、重度のホームシックにかかり、ホテルの部屋に閉じこもっては、毎晩取り憑かれたかのようにTHE KINKSの〈ウォータールー・サンセット( Waterloo Sunset)〉を聴いていた。ほどなくして彼は、英国への愛を高々と歌い上げる曲を書くようになる。

帰国時のBLURは、破産し、アルコール漬けで、ぐちゃぐちゃだった。デビューアルバム『レジャー』( Leisure, 1991)はそこそこ売れたものの、シューゲイズやマンチェスターサウンドの影響が色濃いそのサウンドは、かなり時代遅れとなっていた。そこでBLURは、新しい、これまでと違う音楽性を追求し始めた。

スタジオに戻ったBLURは、〈ポップシーン( Popscene)〉と名づけた曲をリリース。朗々と響くブラス、サウンドを牽引するリズムセクション、レーザーのようなギターリフが押し寄せてくる同曲は、疾走感があるパワフルなアンセムだった。THE TEARDROP EXPLODESやTHE SPECIALSなど、お気に入りバンドにパンク・フレーバーを加えたこの曲で、デーモンは、かつて属していた音楽シーンへジャブを放ったのだ。

「〈ポップシーン〉のレコーディングに入る前、私たちはかなり厳しい状況にありました。そこで、方向性の革新が必要だと感じたんです」とBLURの英国におけるレーベル〈Food Records〉の元共同経営者アンディ・ロス(Andy Ross)は、音楽サイト〈Sounds〉のインタビューで当時を振り返る。「〈ポップシーン〉が完成したとき、私は『最高だ、新たな地平を拓く曲だ』と思いました。この曲はヒットするだろうし、BLURもビッグになって、世界を席巻するだろうと。楽勝だと思ってたんです。だけど実際は、まさに大コケでした」

確かに〈ポップシーン〉は、シングルチャートでも最高32位で、世間にそこまでのインパクトは与えなかったかもしれない。しかし、BLURにとっては、重要な変革のきっかけとなった。もともとプロデューサーにXTCのアンディ・パートリッジ(Andy Partridge)を起用していたが、デーモンが彼と数本デモを録ったところ、あまりにXTC感が強かった。そのため代打として、『レジャー』のプロデューサーであったスティーヴン・ストリート(Stephen Street)を再度迎えることにしたのだが、〈Food Records〉のトップ、デイヴ・バルフ(Dave Balfe)は反発した。

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「デイヴ・バルフがスタジオにやってきて、制作中の曲を聴きました。そしてその後、私たちを強く叱責しました」と2009年の『Mojo』で、ストリートは回想する。「彼は、ヒットしそうな曲が1曲もない、会社の経営にとって自殺行為だ、といいました。でもそれこそ、バンドに必要な喝だったんです。そのおかげでデーモンに火が付きました。まさに『今に見てろよ』という感じでした」

メンバーに、「『NME』読者数人に売れておしまいだろう」と告げ、レーベル側はバンドとの契約解除を検討した。しかしちょうどクリスマスが近づいていたため、レーベル側は良心から、BLURにもういちどチャンスを与えることにした。そしてアルバムが売れるような曲をつくるようデーモンに命じた。デーモンは、その注文に完璧に応じた。

「僕はコルチェスターの実家に帰省した。(中略)クリスマスイブに出かけて酔っ払い、クリスマスの早朝に、ひどい二日酔いで目覚めた。階下に下り、キッチンに向かった。そして〈フォー・トゥモロウ( For Tomorrow)〉を書いたんだ」とデーモンは、BLURの公認バイオグラフィ『ブラー: 3862デイズ―オフィシャル・ヒストリー( Blur: 3862 Days, 1999)』の著者、スチュアート・マッコニー(Stuart Maconie)に明かしている。「そのせいで目を覚ましてしまった父さんが下にきて、こんな早朝に何してるんだ、って訊いてきた。バンドにとって重要な1曲だった。そこから、まったく違うバンドとしての僕たちが始まった」

〈ポップシーン〉が時間稼ぎをしているあいだに、〈フォー・トゥモロウ〉の「ラーラーラーララ…」というサビ、卓越したメロディが、BLURを改めて生き返らせた。レーベルもこの曲を気に入り、ELECTRIC LIGHT ORCHESTRAの明らかな影響がある、とプロデューサーとしてジェフ・リン(Jeff Lynne)の起用を提案したが、今回もバンド側は、ストリートを迎えてレコーディングすると決めた。さらに〈ケミカル・ワールド( Chemical World)〉も、レーベルの承認を得られた。BLURは英国レーベルを、にわかに味方にしてしまった。しかしまだ、米国レーベルのSBKを納得させる必要があった。SBKはグランジ人気に乗じて稼ごうと、NIRVANAやSMASHING PUMPKINSのアルバムをプロデュースしたブッチ・ヴィグ(Butch Vig)の起用を勧めていたのだ。

「かなり難しい任務に思えた」とグレアムはマッコニーに吐露した。「当たり前だ。あんなクソレーベルに期待できることといえばそれくらいだよ。ブッチ・ヴィグは既に、『ネヴァーマインド』で歴史に残る作品をつくった。2度はない」(さらにいえば、SBKが米国で『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』( Modern Life Is Rubbish,1993)をリリースしたさいには、〈ケミカル・ワールド〉がスタジオ・ヴァージョンからデモ・ヴァージョンへ差し替えられている)

グランジとSBKへの軽蔑が積もり積もったBLURは、セカンドアルバムで自らの英国性をただ大事にするだけでなく、意識的にひけらかすことに力を注いだ。BLURは突如としてイメージを刷新し、フレッドペリーのトップス、ドクター・マーチンのブーツ、3つボタンジャケットを身にまとった。宣材写真はいかにもな英国感に溢れ、〈British Image 1〉〈British Image No. 2〉と直接的に示されるほどだった。その姿勢はアルバムのインナースリーブにまで現れ、そこにはスキンズ・ファッションに身を包んだバンドメンバーの油彩画が描かれていた。さらに、アルバムジャケットのテーマは戦前の蒸気機関車〈マラード(Mallard)〉号。世界最速を誇った英国製の蒸気機関車だ。そしてアルバムタイトルの〈Modern Life Is Rubbish〉は、デーモンがロンドンのベイズウォーター・ロードで見かけたグラフィティアートから拝借した言葉だった。

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デーモンは、『Britpop!: Cool Britannia and the Spectacular Demise of English Rock』( 2004)の著者で『NME』の記者、ジョン・ハリス(John Harris)に、当時の自分の意図を実に大仰に語っている。「現代の生活(=モダン・ライフ)とは、過去の廃棄物(=ラビッシュ)だ。僕たちはみんな、廃棄物の上に生きている。廃棄物が、僕たちの思考を決定づけているんだ。これほどまでに長い時間をかけて築かれているから、もうオリジナリティは必要ない。つぎはぎして永遠に再置換できるものが溢れているから、何か新しいものをつくる必要なんてまったくないんだ。〈Modern Life Is Rubbish〉というフレーズは、〈Anarchy In The UK〉以来の、ポップカルチャーについての最重要メッセージだね」

デーモンの大いなる野心は大言壮語だったかもしれないが、BLURが『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』で英国文化を変革したことに疑いの余地はない。本作は、ブリットポップの原型を決定づけたアルバムとみなされている。同胞に、英国の紅茶やパブのハシゴ文化に誇りをもとうと呼びかけると同時に、現代生活を新しいかたちで祝福する必要性を訴えた作品だ。

さらに重要なのは、BLURが自分自身を見出したことだ。何百ものバンドと変わらないサウンドを奏でていた二番煎じのインディーバンドは消え、代わりにそこには、THE KINKS、XTC、デヴィッド・ボウイ(David Bowie)、THE JAMなど先人たちから手がかりを得て、自信に満ちたバンドの姿が現れた。またこのアルバムは、デーモンとグレアムの共作が始まった作品でもある。デーモンのポップで切れ味抜群なフックを書く才能は本作でついに開花し、誰かのコピーから脱したグレアムは、革新的なリードギターへの情熱を解放し、音楽界を代表するギタリストのひとりとなる。

〈フォー・トゥモロウ〉をオープニングとするこのアルバムは、すべての曲に独自の色がある。〈サンデイ・サンデイ( Sunday Sunday)〉のサーカスを思わせるゆったりしたリズム、〈スター・シェイプト( Star Shaped)〉の平衡感覚を奪うメロディ、米国へのメランコリックなラブレターである〈ミス・アメリカ( Miss America)〉、らせん状に渦巻く燦然たるポップソング〈オイリー・ウォーター( Oily Water)〉…。こうしてBLURは、未来への基盤を整えた。そこから、3作目の『パークライフ』( Parklife, 1994)、続く『ザ・グレイト・エスケープ』( The Great Escape, 1995)を含む〈ライフ〉3部作が結実する。

『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』のリリース1ヶ月前、英国の音楽誌『Select』1993年4月号の表紙を飾ったのはSUEDEのフロントマン、ブレット・アンダーソン(Brett Anderson)だった。そこではブレットがユニオンジャックの前に立ち、〈米国人は帰れ!(Yanks go home!)〉との見出しが掲げられていた。この表紙がどれほどの議論を呼ぶか、同誌は把握していなかった。ブレットは、自分の写真がこんなふうに使われるとは考えておらず、自分は無関係であると言明した。同誌が批判を受けたのはその国粋主義的な愛国心のためだ。その前年の1992年には、ロンドンのフィンズベリー・パークでのライブで、ユニオンジャックをまとったモリッシー(Morrissey)が同じ理由で議論を呼んでいた。

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BLURにとっては、これ以上に気勢をそがれることはなかった。SUEDEは、デーモンが軽蔑している唯一の英国バンドだった。それは、BLURにこそふさわしいはずの注目をSUEDEが浴びていたからだけでなく、当時デーモンが付き合っていたELASTICAのジャスティーン・フリッシュマン(Justine Frischmann)がSUEDEの元メンバーであり、ブレットの元カノでもあったからだ。デーモン個人に関する限り、当時の彼は、ふたつの戦争を闘っていた。ひとつは対米国、もうひとつは対SUEDEだ。しかも、前述の『Select』の、厚かましくも〈コバーンさん、誰をおちょくってるとお思いですか?〉と題された記事で、BLURは触れられてもいなかった。同誌は、自分たちが推進していた親英国プロパガンダにぴったりの作品を、まさにBLURがプレスしようとしていたことに、気づいていなかったのだ。

『NME』のインタビューで、デーモンはこう吐き捨てている。「ヒッピーを駆逐しようとしたのがパンクなら、僕が駆逐するのはグランジだ。〈みんなキチンとしようぜ〉〈もっとエネルギッシュに活動しようぜ〉っていう同一の感情に端を発してる。今グランジ野郎たちは、昔のヒッピーみたいにうろちょろしてる。猫背、ギトギトの髪の毛。何ら変わりがない。あいつらは好きか嫌いか関係なく、またBLACK SABBATHを聴いている。イラつくよ」

『The Zine』のインタビューでは、デーモンの口撃はさらに直接的だ。「デカいブルドーザーを手に入れて、廃棄物をかき集め、すべて米国に送ってやるんだ。(中略)英国を再びフレッシュにする時がきた」

また彼は、『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』が海外では売れないだろうとも予測していた。「このアルバムが米国人に受け入れられないのはわかってる。彼らが理解できる点はひとつもないからね」とデーモンはライターのグレアム・リード(Graham Reid)に明かしている。「10年おきくらいに独自のルーツに立ち返ってる英国を、米国人は理解できない。5年遅れでようやく理解する。米国人は最近になってようやくレイ・デイヴィス(Ray Davies)やTHE KINKS、THE SEX PISTOLS、THE SMITHSがわかってきた。つまり、今僕たちがやってるのは、未来のための投資なんだよ」

彼は正しかった。『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』は当初、1万9000枚しか売れず、ラジオでもほとんど流れなかった。アニメ『ビーバス・アンド・バットヘッド』( Beavis and Butt-head)でも、〈ケミカル・ワールド〉のMVが酷評されたくらいだ。ビーバスはこう吐き捨てた。「顔にオシッコぶっかけてやりたいよ。こいつらが寝てるときとかにさ」

それに比べ、英国での売れ行きはずいぶん良かった。アルバムチャートでは最高15位にランクイン。しかし、シングルの〈フォー・トゥモロウ〉〈ケミカル・ワールド〉〈サンデイ・サンデイ〉は、大した結果を出せずに終わった。自分たちが新しくたどり着いた作品への反応をBLURが得たのは、1993年8月、レディング・フェスティバルでのライブが初めてだった。

「レディングの巨大なテントの下でBLURが演奏した夜、あれが私にとっては最大のターニングポイントでした」とストリートはマッコニーに明かした。「とにかく最高でした。会場は満員で、演奏はすばらしかった。私にとっては、あれがBLURのベストライブでした。彼らはこれからも生き残っていくな、と思わせるライブでした。ただ生き残るどころじゃないだろうな、と」

その通り、BLURはただ生き残るどころではなく、それから1年も経たぬ間に、英国ナンバーワンのバンドとなった。サードアルバム『パークライフ』は、セカンドアルバムからわずか11ヶ月後にリリースされ、ブリットポップというカルチャー革命を牽引することになる。デーモンは、そのシンボルだった。

「僕らがこのアルバムでやってることは間違いだっていわれてた。でも実際、僕たちは道筋を予言し、進むべき道を拓いていたんだ。僕たちがやっていたことはすべて、その後3年続くブリットポップ・ムーブメントをかたちづくることになる」とデーモンはマッコニーに言明した。そう、彼のいう通りだ。

BLURが『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』をつくらなければ、『パークライフ』も、その後のすべても、生まれ得なかった。BLUR自身がこの作品の重要性を認識している。グレアムは『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』をBLURのベストアルバムと呼んだ。しかし同作について、これ以上ないコメントを〈Dazed Digital〉に寄せたのは、ベーシストのアレックス・ジェームス(Alex James)だ。「僕たちは一介のインディーバンドから、より大きな志と気概を抱いたグループに変貌した。当時はみんな僕たちのことを嫌っていたけど、僕たち自身は、自分たちが正しいことをしていると思っていたし、最終的にその正しさが証明されたんだ」

This article originally appeared on VICE US.